2008年03月25日
東方植民によるドイツ騎士団の支配
とても残忍な事件だったのですね。
誠に遺憾です。
1217年ころ、マゾフシェ侯コンラート1世は異教徒プルーセン人に対する征服を企てたがローマ教皇の呼びかけにも周辺の諸侯は応じず、クルムラントの領有権と引き換えに協力を申し出たのはドイツ騎士団であった。1226年総長ヘルマン・フォン・ザルツァに率いられ、ドイツ騎士団による東方植民が始まる。この征服戦争は東方十字軍とも呼ばれ、改宗に応じない先住民は容赦なく殺戮されるという凄惨なものだった。
1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の発したリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン領有が認められ、1230年に結ばれたクルシュヴィッツ条約に基いてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンの全ての権利を認めたため、ドイツ騎士団はプロイセンの領有権を確立、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラードで、後にプロイセン公国、プロイセン王国の首都として発展した。)やダンツィヒ(現ポーランド領グダンスク)などの都市を拠点に騎士団領が発展していった。残忍な征服者に対し先住民は頑強に抵抗し1260年に大反乱、1283年に至ってなお反乱が見られた。だがドイツ騎士団の軍事的優位は動かしがたく、14世紀前半までにプロイセンはキリスト教化された。文字を持たなかったプルーセン人は記録を残さず、わずかに生き残った人々も次第にドイツや周辺地域からの移民に同化されたため、今ではこれら先住民のことはほとんど分からない。
ドイツ騎士団領プロイセンは20の大管区に分割されており、各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従って統治するという中央集権的で能率のよいシステムに基いて運営されていた。騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会してきたため人材は豊富で、移民の受け入れも盛んだったため14世紀中葉には騎士団領は繁栄の頂点にあった。この移民をよく受け入れる気風はずっと後の時代にまで及び、プロイセン王国の繁栄の基礎となった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
相互リンク
福岡私書箱 日本総合私書箱 私書箱 大阪私書箱 転送電話 保証人代行 保証人紹介 保証人紹介 保証人 保証人.com
- Permalink
- by
- at 18:00
- Trackbacks (0)